第2回 亜麻工場~時を超え脚光④亜麻工場を襲った悲劇

「工場には爆弾が3個落とされた。一つが住宅で3棟17戸が大破した。もう1個が工場の裏手に落ちた。木の下に逃げ、防空壕堀りをしていた弟・照治たちに爆弾の破片が落ちてきた。弟は右腕が破片で切断され、肋にも突き刺さって即死した」。亜麻工場に勤務していた毛利伝次郎氏の生々しい証言が、本別町歴史民俗資料館に展示されています。

証言の最後にはこう記されています。「今度空襲が来たら自分の番だと思いながら生活しているうちに終戦になり安心した。弟・照治はかわいそうなことをしたものだと思う」。

本別空襲は1945年7月15日、米軍機43機による銃爆撃を受け、死者40人、被災者1915人、全焼した家屋は279戸にのぼる未曾有の惨事となりました。2012年4月14日付の十勝毎日新聞では、江別市在住で戦争史を研究する西田秀子さんが、米軍資料をもとに本別空襲の背景を分析した内容が紹介されています。

西田さんは「本別が狙われたのは誤爆や偶然ではなく、亜麻工場が軍需工場として米軍の攻撃目標に挙げられていたため」と指摘。従来の「悪天候で帯広空襲を断念した結果の誤爆」という説を覆し、戦略的な攻撃だったと位置づける驚きの内容でした。

亜麻工場だけでなく、仙美里には軍馬養成を担う「軍馬補充部十勝支部」も存在しており、本別が軍事的に重要な拠点だったという説が有力視されています。

軍需作物として国に守られていた亜麻は、戦後その支えを失い、競争の波にさらされました。昭和63年には向陽町内会による亜麻植え活動の記録も残っていますが、やがて静かにその灯を消していきます。

そんな亜麻が、機能性作物として再び注目されるとは、当時誰も想像していなかったことでしょう。

亜麻は、薄紫色の可憐な花で、朝日とともに開花し、昼頃には散ってしまいます。(7月21日撮影)
「亜麻色」(薄紫色)の、乾燥した亜麻の実(8月27日撮影)

(ほんべつくみあいだより2025年7月号掲載)