
本別町で亜麻の栽培が始まったのは、1913年(大正2年)頃とされています。井出日記には、「3月24日、昨日農会にて合いたる幕別製線工場の野瀬正治氏に、(前田)金四郎殿方にて再会、亜麻試作奨励のことを諾す」といった記述が残されています。
亜麻は、畑にある期間が約3ヵ月と短く、夏作物の中でも収穫が早いことから、裏作が可能で冷害にも強く、耕作面積は急速に広がりました。地域ごとに品質に応じて1~5等級に分けられ、等級を決める場面では激しい議論が絶えなかったとも言われています。それでも亜麻栽培が支持されたのは、お盆前に収穫でき、その年最初の現金収入につながる作物だったからです。
1917年(大正6年)には、向陽町から柏木町にかけて帝國繊維(株)本別工場が建設され、翌年から製造が始まりました。同工場で勤務していた元社員によると、社宅が整備され、社員同士のコミュニティが形成されていたほか、女性の活躍も目立ち、共働きや家族での労働が当たり前の光景だったといいます。
そうした中、仙美里地区の山田幸作さんは1929年(昭和4年)、亜麻の品種改良を重ね、「仙美里種」と呼ばれる優良品を開発しました。従来品種より約30%の増収が見込まれ、茎の品種も全道一と評価されました。その熱心な取り組みから「亜麻幸作」と呼ばれ、約1ヘクタールの規模で栽培していたと伝えられています。
全道一の収量を誇る品種を生み出した本別工場は、地域経済を力強く支えました。しかし、亜麻が軍需作物としての性格を強めるにつれ、太平洋戦争時には主要産地として標的になるという、厳しい歴史にも直面することとなりました。

(ほんべつくみあいだより2025年9月号掲載)