歴史写真館@ほんべつ②(明治43年頃)
明治30(1897)年に「北海道国有未開地処分法」が施行され、広大な土地が入手しやすくなると、道外からの大農場による開墾が盛んになりました。
本別町でも、同年に勇足地区、仙美里地区にそれぞれ団体が入植。本別地区にも数戸が移住し、それから各地区の開拓が進みました。
「歴史写真館@ほんべつ」2回目は、徳島県から勇足地区に入植した移民団による「利別農場」の写真と、本別開拓八翁の一人である東條儀三郎らが残した資料を紹介します。

写真①は明治43年に発行された「十勝国産業写真帳」に掲載されている1枚です。拡大してよく見ると、建物玄関の看板は「合名会社利別農場」と読めます。
この農場は明治30年、徳島県那賀(なか)郡の板東勘五郎(当時衆議院議員)らが貸し付け許可を得た原野に、同郡立江(たつえ)村の村長だった東條儀三郎が、同年農場管理人として小作61戸を率いて入植。利別川流域にあった1千ヘクタール余りの農場は、当初「板東農場」と呼ばれていましたが、その後利別農場と呼ばれ、同38年「合名会社利別農場」となります。
この頃、畑では豆類、イナキビ、バレイショ、麦などが作付け・収穫されていました。その様子を詳細に記録した帳簿類やさまざまな文書は、写真とともに東條家で大切に引き継がれ、開拓時代の農業や流通、日常生活を知る上でとても重要な資料として、現在歴史民俗資料館で保管されています。
他にも、儀三郎が明治16年に故郷で取得した剣術「貫心流」免許皆伝の巻物(写真②)や、歳月の重みを感じさせる燗銅壷(かんどうこ)(写真③)など、貴重な実物資料も多く残されています。


この燗銅壷は銅板と木で作られた携帯酒燗器(しゅかんき)で、炭火で水を温める熱燗機能や、二人で運ぶための棒を通す穴があり、とっくりや重箱を格納できるなど、コンパクトで機能的。当時の知恵と趣を今に伝えます。
花見シーズン到来。昔々の東條家の皆さんも、この燗銅壷を持ち運び、酒を酌み交わしながら、勇足の桜を楽しんでいたのかもしれません。
(広報ほんべつ2018年5月号掲載)