若かりし頃の伊福部昭

伊福部昭 紹介文

若かりし頃の伊福部昭 伊福部昭は日本を代表するクラシック音楽の作曲家です。
その民族主義と呼ばれる創作姿勢は戦前戦後を通して時流におもねることなく一貫しており、作品の原風景となったのは父の音更村長就任に伴って少年期から青年期を過した音更村での開拓移住者の唄う民謡であり、アイヌ民族の伝統音楽でありました。

 大正3年、釧路市幣舞に生まれ北海道で32歳まで過しました。札幌二中(現札幌西高)の二年生の頃から同期の三浦淳史の勧めによって独学で作曲を始め、北大農学部林学実科在学中の19歳の時、最初の代表作「日本組曲(ピアノ組曲)」を作曲。北大を卒業後、地方林務官として厚岸に赴任した21歳の時には最初の管弦楽曲「日本狂詩曲」が国内の音楽界を跳び越えパリでチェレプニン賞を受賞するという快挙を成し遂げ、若くしてその名を広く知られるようになりました。その後も、本業の傍ら「土俗的三連画」や「交響譚詩」等の作品を北海道から発信し続けました。戦後、昭和21年に上京。請われて東京音楽学校(現東京芸術大学)作曲科講師に就任し、芥川也寸志、黛敏郎らを、同校辞任後も松村禎三、石井眞木らを育て、在野にあって「シンフォニア・タプカーラ」や「リトミカ・オスティナータ」などの大作を次々と発表しました。その後再び請われて東京音楽大学教授、同大学長、同大民族音楽研究所所長を歴任しました。

 また映画音楽の作曲家としても高名で、特撮映画「ゴジラ」の作曲家として知られています。その他「ビルマの竪琴」や「コタンの口笛」など300本以上の映画音楽を手がけています。

 その著書「管弦楽法」は作曲技法の古典として、また「音楽入門」は音楽の哲学書として若い作曲家たちのバイブルとなっています。

 1980年紫綬褒章、1987年勳三等瑞宝章を受け、2003年には文化功労者に選ばれました。

 2006年2月8日逝去(享年91歳)。