歴史写真館@ほんべつ⑤(大正5年頃)
大正時代に入ると、第一次世界大戦の影響もあって農産物取引が盛んになり、十勝の豆の作況が世界の相場を左右したと言います。本別町でもこのころ「豆成金」が続出。一方で産業組合(現・農業協同組合)の基礎づくりの時期でもありました。
「歴史写真館@ほんべつ」5回目は、好景気に沸く大正初期。「豆のまち本別」を支えてきた農業倉庫の移り変わりをお伝えします。
現在の本別町農業協同組合の前身である本別信用購買販売組合(産業組合)は、大正2(1913)年に本別開拓八翁の一人である井出英作を初代組合長として誕生しました。組合員は33人。それまで農産物の販売や生産資材の購入は業者委託かあっせんによるものでしたが、組合員の利益のため、組合が直接扱うための施設が必要となりました。当初は仮事務所を現在の弥生町に置きましたが、大正5(1916)年、本別駅前に産業組合事務所と販売倉庫が建てられたのです。

写真①をよく見ると、左側の大きな建物の看板に「無限責任本別信用販売購買組合」と読めます。増築された倉庫の落成記念写真のようですが、このころ1号倉庫、2号倉庫が完成するなど施設整備が進み、生産物の収容増に伴い、大正10(1921)年には3号倉庫を増築しました。
しかし、相次ぐ災害で損傷したため、昭和5(1930)年、木造で壁面コンクリートの農業倉庫「大通り倉庫」が新築されました(写真②)。内部に雑穀精選工場が設置されたこの倉庫は、当時十勝の産業組合の施設では最大のものでした。

昭和20(1945)年7月15日の本別空襲では銃撃を受け、壁に十数か所の弾痕が残りました。空襲の史跡として、多くの人々に平和の大切さを伝えてきましたが、建物の老朽化と国道の拡幅により解体されることになり(写真③)、平成25(2013)年7月の解体時に壁の一部を切り取り、戦争の歴史を風化させないよう「本別空襲の爪跡」として資料館に常設しています(写真④)。


(広報ほんべつ2018年8月号掲載)